July 15, 2008

何を見るのか?妖しい乙女たち。/『高畠華宵』(らんぷの本)5

華宵本




●高畠華宵 (らんぷの本)
●編者;松本品子
●出版社;河出書房新社
●DATA;発売日 2004年1月/
135頁




国貞えがく乙女もゆけば
華宵ごのみの君もゆく
宵の銀座のオルゴール

昭和3年(1928)
『銀座行進曲』二番から

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 本郷の東大北側門近くに、“弥生美術館”がある。弥生は地名で、弥生式土器はここから出土したことから命名された。個人邸宅を改装した美術館は小さいけれど落ち着いた雰囲気で好ましい。この美術館は 明治・大正・昭和初期の挿絵を中心とした、出版美術の専門美術館。設立のきっかけは、創立者鹿野琢見氏が高畠華宵描く「さらば故郷!」に魅せられたことがきっかけだったと云う。

 都内で町歩きをする時、この“弥生美術館”周辺が好きだ。抜き身の貝だけを売る魚屋さんや、江戸千代紙のお店など、江戸情緒を残す小さい商店街がある。そんな散歩の終点はいつも“弥生美術館”だ。

 大正から、昭和初期、庶民の贅沢が育った時代。妖しい美少女たちが出版の世界で量産される。彼女らは、中性的だ。15〜6歳に見える肢体は、意外に健康的だが、体育の時間は似合わない。“深窓の令嬢”なんて死語もあるが、華宵の描く少女たちは、深窓の奥にはいない。クローンのように同じ顔だちをした彼女たちは、実は秘密に研究室で生まれたのだ。今も絵の中の少女たちは、何も見ていないようで、こちらを見ている。そんな、不可思議な存在感で佇んでいる。

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 本書『高畠華宵』は大正末から昭和初期、一世を風靡した人気挿絵画家“高畠華宵”の作品と生涯を紹介したもの。

 始めて華宵の絵を見た人は、どこかで見たように感じるかもしれない。多くの少女画家、挿絵画家に影響を与え、現在活躍中の漫画家丸尾末広さんにも、華宵の絵の影響がある。

 高畠華宵が世に出たのは、明治44年(1911)。津村順天堂の“中将湯”中将姫の広告イラストから始まっている。意匠を凝らした華宵のモダンな作風は人気を博し、長く津村の仕事をしている。今も売っているツムタのバスクリン、昭和5年、津村順天堂が新発売した日本で最初の入浴剤“バスクリン”のイラストも華宵が描いていた。

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 広告の仕事以外も、華宵の仕事は順調だった、大正2年(1913)から講談社の『現代』『面白倶楽部』『婦人倶楽部』『少女倶楽部』『少女画報』『金の船』などの表紙、口絵を手掛けている。大人気になった華宵と講談社の蜜月は突然終わる。大正14年(1925)のことだった。

 講談社と絶縁後、だんだん軍靴の音も高くなる世相もあって、華宵の作品は武々しい美少年像が多くなる。当時、実業之日本社『日本少年』連載の“馬族の唄”の挿絵を担当し、華宵の人気は頂点に達する。昭和8年生まれの私の父だが、子供の頃、満州へ渡って馬族になりたかったそうだ(汗)。文字も読めないような子供にまで、“馬族の唄”の人気は知れ渡っていたことになる。

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 男性の人気人形作家は、中性的なキャラクターであることが多い。華宵も生涯独身であったり、女性のファッションに興味があったり、繊細な中性的なキャラクターだったらしい。男性が中性化すると繊細になり、女性が中性化すると???になる(笑)

 古い作家はどんどん忘れられる。だが、高畠華宵の画業は、100年余の未来に伝えられるかもしれない。日本のオタクカルチャーは、高畠華宵の頃、萌芽が芽生えたと思うのは、私だけだろうか…。

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 最晩年は、経済的にも困窮した華宵。兄の援助で養老院に居を構える。そこでは日本画に打ち込んでいたそうだ。自分が描いた『幸福の王子』のように、すべての才能を世の中の少年少女に分け与えた華宵…。芸術と云うギフトは、他のギフトとは両立しないのだろうか。

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